二人の紹介

─ ─笑達さんは紀美野町出身。有紗さんは広島市の出身と伺いました。どういった環境で育ったんですか?

笑達(しょうたつ):僕は和歌山の紀美野町で育ちました。小中高とずっと野球漬けの日々で、高校も野球部が強い和歌山市内の星林高校に通っていました。町の中でも山寄りの地域に住んでいて、毎日1時間以上自転車を漕いで通いました。よく通ったなと思います(笑)

有紗(ありさ):私は広島市内の普通の住宅街出身です。都会でも田舎でもない、ごく一般的な町ですね。私はスラムダンク世代だったので、中学からずっとバスケ部でした。高校まで広島にいて、大学で京都に出てきました。

─ ─お二人が出会ったのは共通の大学である京都造形芸術大学(現 京都芸術大学)ですね。

大学ではどういったことを学ばれてたんですか?

笑達:情報デザイン学科で、写真やイラスト、版画などいろんな表現方法を幅広く学べる環境でした。それが今の活動に直接関係はないけど、学んだ知識や経験が少しは活きているのかもしれません。

有紗:私は環境デザイン学科で建築を専攻していました。 建物の図面を引いたり、コンセプトを考えたり、プレゼンをしたりと、割としっかりした硬い内容の学科でした。小さい頃から間取り図を見るのが好きで、自分で間取り図を描いて家具を配置するのが楽しくて。人が集まる空間を作ることに興味があったのかもしれません 。ただ、今の活動とは直接の繋がりはないです。

笑達:有紗とは学科は違ったけど、同じバスケットサークルで出会って。

有紗 :そこで出会った人たちとのご縁がきっかけで、私たちは「似顔絵」に集中するようになったんです。その環境や繋がりがなかったら、今の活動はなかったかもしれません。今の私たちにとって大きな意味を持っています。

─ ─大学でのご縁が今のお仕事に繋がっているんですね。具体的にどんな形で関係しているんですか?

笑達:似顔絵を始めたのは大学1年生の時です。大学の先輩に誘われて、路上で自分の描いたものを売るようになったのがきっかけです。最初はポストカードを売っていましたが、お客さんが来ないので、画材を持ってきてその場で人を描くようになりました。それが似顔絵の始まりです。最初、有紗は僕のサクラ役でした(笑)誰かが描かれている光景を見ると人が集まってくるので、有紗に座ってもらって絵を描くフリをしてもらったりしていました。

有紗:初めはサークルの仲間と一緒に路上に遊びに行っていただけで、私は自分が似顔絵を描くつもりは全然なかったんです。何度か遊びに行くうちに、自分で画材を持っていって好きな絵を描き始めるようになって。そのうちお客さんに「このタッチで描いてほしい」と頼まれるようになったんです。私は「え、描けませんよ!」って言ったんですが、たっちゃん(笑達)が、「描けるやろ? 大丈夫です、描けますよ。」ってお客さんに言ってしまって、なりゆきで描き始めて。でも、それがだんだん楽しくなってきて、本格的に自分でも描くようになりました。最初はたっちゃんと同じ場所で描いていましたが、そのうち自分で描ける場所を見つけて、大阪まで行ったりもしました。

二人三脚で始まった
似顔絵という仕事

─ ─路上で似顔絵を描き始めて、そのあと似顔絵を仕事にしていくんですよね。どういう経緯で始まったのですか?

 

笑達: 大学時代の先輩が出版社を立ち上げて、その取引先の書店などで似顔絵のイベントに誘われて、在学中にバイトで何度か参加するようになりました。それがきっかけでいろんな場所で似顔絵を描くようになり、大学卒業の時にその先輩から「うちの会社で”似顔絵事業部”をやらないか?」と誘われたんです。

正直、初めは迷いました。他にも内定をもらっていたので。でも「好きなことをやれるのが一番いい」と思って、その会社に入ることにしました。その時、先輩が「一人じゃ大変だからもう一人雇ってもいいよ」と言ってくれたので、有紗を誘ったんです。

 

有紗: そうして二人で似顔絵を描く仕事をスタートしました。同時に入社した形ですね。

 

笑達:会社は京都にあって、大学からあまり遠くない場所でした。 会社では似顔絵のイベントや通販もやっていました。ゼクシィに広告を載せてもらったりして、結婚式のウェルカムボードの依頼がすごく多かったですね。

 

有紗:立ち上げも運営も最初は二人だけで、狭いスペースで全部手作業でした。パンフレットを作ったり、注文の似顔絵を描いたり、とにかく何でも二人でやって回していました。でもその分、自由にやらせてもらえたのが良かったです。

 

笑達:社長も「好きなようにやったらいいよ」という方だったので、僕たちでアイデアを出して思いつくままに形にしていました。本当にラッキーなポジションでしたね。

 

 

─ ─お二人はその頃からすでにお付き合いされてたんですか?

 

笑達: 会社に入ってから、すぐ付き合い始めましたね。入社して5月くらいからだったと思います。卒業前の2月くらいから一緒に準備を始めていたので、自然な流れでそうなった感じです。

 

有紗: そのあと、私が24歳の誕生日にプロポーズされて、1年後の25歳の時に入籍しました。

 

 

─ ─ お二人で仕事も生活も一緒にされていて、フィーリングが合わないと大変ではないですか?

 

有紗: 当時は今より圧倒的に喧嘩が多かったです。プライベートというより、仕事のことで意見がぶつかることが多くて。「こうした方がいいよ」みたいな話で口論になることもありました。

 

笑達: ただ、一緒に過ごす中で感覚や好みが育っていった感じがあります。大学生の頃はまだ何も固まっていなかったけど、社会に出てから同じものを見て共有する時間が長かったので、少しずつ近い感性が育っていったんだと思います。

 

有紗: そうですね。私も若かったし生意気だったので(笑)言われたことにただ「はい」とは答えなかったりしたんですけど、感性に対する疑いはお互いになかったです。大まかにでも「わかるわかる」っていう納得感が常にありました。初めから「この人のセンス無理だわ」みたいなことはなかったですね。お互いに教え合う部分もありましたし、自然と噛み合った感じです。

組織を離れ、創作の道へ
自然物の美しさと新しい自分

─ ─ それからしばらくは2人だけで続けていくんですか?

 

笑達:そうですね、 最初の2年間は二人だけでやっていました。その後、注文が増えてきたので、社長の指示で作家や事務のスタッフを増やしていきました。

有紗:最初は本当に二人でやってたのに、4年後には似顔絵部署だけで10人以上のチームになりました。私が入社した時は社員全体で10人ちょっとの小さな会社だったのに、4年後には社員数が60人ぐらいになっていました。

 

 

─ ─すごい成長ですね。他の部署はどんな事業をやっていたんですか?

 

笑達: 出版やデザイン、ステーショナリー(文房具)の制作などをやっていました。似顔絵、雑貨、出版が主な事業でしたね。

 

有紗: そうそう、当時は本もすごく売れていて、会社全体がイケイケどんどんの雰囲気でした。社長が持っていたエネルギーは本当にすごかったです。周りを巻き込む力があって、みんなを「やろうぜ!」という雰囲気にしてくれました。

 

笑達: 僕たちにいろいろ任せてもらえたのも大きかったです。自由にやらせてもらいながら、暮らしの糧を自分たちで作る経験ができました。

 

有紗:結局4年間そこで働いて、私が最初に辞めました。

 

笑達: 僕はその後も4年続けて、合計8年間働きました。30歳の時に辞めましたね。

 

有紗:彼はチームリーダーという立場上、すぐには辞められなかったんだと思います。

 

 

─ ─そのままそこにいても良さそうな充実した雰囲気が伝わってくるのですが。。

なぜ2人は会社をやめて別の道を選んだんですか?

 

有紗: 一言で言うと、自分の場合「組織」というものが合わなかったんだと思います。会社が成長していく中で、どんどん後輩が入ってきて、私はまだ若くて経験もないのに、先輩として立たされる立場になりました。週に2回締め切りがある日々が何年も続いていて、最初の頃はやる気があったので頑張れたけど、次第にキャパオーバーになりました。その頃は自分の正義が強すぎて、チームの中で協調性を保てなくなっていた。組織の中で足並みを揃えるのが難しくて、精神的にも追い詰められていきました。それに、「もっと自分の作りたいものを作りたい」という気持ちが強くなったんです。でも、会社では売れるものを優先しなければいけなくて、そこに違和感を感じ始めていました。

そして会社を辞める決断をしてからは1人で作品作りを始めました。最初は刺繍や布に興味があって、フランスの刺繍学校に行くことも考えていました。でもその矢先に父が亡くなり、落ち込んでいた母の看病のために日本に残りました。そうこうしてるうちに、勝手に作りたいもの作り出し始めて、 会社を辞めて半年後には、作ったものがすごい溜まってて。それを26歳の時に京都の”恵文社”という書店のギャラリーで展示したら評判が良くて、そこから次々と展示のお誘いの声がかかるようになって、仕事につながっていったんです。

 

 

─ ─アーティストとしてのデビューですね。

 

有紗: そうですね。最初は”自然物”を使ったアクセサリーやオブジェを作っていました。それが徐々に展覧会やオーダーにつながり、3年後にはやっと目処がつくようになりました。最初は自分を癒すためにやっていたことが、仕事として広がっていった感じです。

 

 

─ ─ “自然物”を使った作品作りというのは、どういうきっかけで始まったんですか?

 

有紗: 会社を辞めて、かなり自信を喪失してたんです。「この会社でうまくやっていけないなら、どこに行ってもうまくいくはずがない」って。でも、「絶対こんなところで終わりたくない。もっとすごいものが作れるはず。」みたいな、根拠のない自信のような気持ちもあって。そんな複雑でセンシティブな精神状態で、就職してから初めて時間に余裕ができたとき、改めて周りの景色が美しく見えるようになりました。それまで忙しさに追われて気づかなかった自然の美しさに感動して、枯れた枝や葉っぱを拾い始めたんです。自分が美しいと感じたものをそばに置くことで、自分自身を癒し、それを身につけて美しくなりたいと思ったのが始まりでした。本当に自分が心から作りたい作品づくりを初めてからは、とてもありがたいことに、運も良くて、人にも恵まれて、自然と仕事になっていった感じでした。

自然物への興味は知識からというより感覚的に受け取るものが多くて、自分が感じたものことに素直になって夢中で作り続けました。作ったものを通じて、自分が今何を考えているのかを教えられるような感覚もあり、それが本当に楽しかったです。そして、そういった作品が人に喜んでもらえることが、さらに自分にとって大きな喜びになっていました。

 

 

─ ─ 作ることが、心を回復する大事な行為だったんですね。

 

有紗: ほんとうにそうでした。今振り返ると当時はとにかく必死でした。自分の心を癒し、活気を取り戻すために「作る」ことが必要だったんです。生きていく上ですごく必要な行為だった。会社勤めの時は、「私が私であると上手くいかない」という思いが強くて、自分を抑え込んで働いていました。でも植物は全て違っても美しいと感じさせてくれて、そこから「私みたいなのがいてもいい」という感覚を持つことができたこと、それが大きな転機になりました。自然から学

ぶことや受け取ったものが、次第に今のこの地に移住するきっかけや、ここでの活動にも繋がっていきました。

自分の作りたいものを作りたい
似顔絵師としての決意

─ ─ 笑達さんは、その後も4年間会社を続け、似顔絵を描き続けたんですよね。

 

笑達: そうですね。会社を始めて最初の数年は「チームで頑張ろう」というマインドでやっていました。社長の期待もあり、人を増やしてチームを大きくすることが良いことだと思っていたんです。でも、増える責任や仕事の中で、絵を描く時間がどんどん減っていきました。昼間は会議や面接、雑務をこなして、夜中にやっと絵に取り組む日々が続いていました。作家としての自分であり続けたいという思いが強かったので、どんなに忙しくても、絵を描くことだけは絶対にやめないと決めていました。でも、隣で有紗が自分の作品を個展で発表し、僕が憧れる場所で評価されていく姿を見ているうちに、自分の中で葛藤が生まれはじめました。責任者としてチームを守るべきだという思いと、自分の作りたいものを作りたいという思いの間で揺れていました。

その時、社長に相談し、自分が本当にやりたいことを明確にするために、プレゼン用の冊子を作ることにしました。デザイナーや経理担当者の助けを借りて、似顔絵を世界にどう届けたいのか、理想のチーム像を具体化しました。その中で気づいたのは、自分の目指す方向が会社のビジネスモデルとは合わなくなってきているということでした。僕の提案はいわば、「売上や給料が激減しても、絵の力だけで勝負するチームを作りたい」というものでした。でも、その提案は会社全

体や社員の暮らしを脅かすものであり、社長も「全社員の生活を背負う」という責任感を持っている人だったので、実現は難しいとわかっていました。

最終的に、社長とも話し合い、僕自身もこの出版社で自分を騙しながら頑張るのは難しいという結論に至りました。そこで、会社を辞めることを決断しました。

 

 

─ ─ そこから本格的にアーティスト活動を始めたんですか?

 

笑達: アーティストというよりは、あくまで似顔絵描きです。辞めたときに、自分が描きたい似顔絵を追求しようと決めてましたから。「生涯似顔絵師」と冊子にも書いて、本当に一生これをやっていくつもりでした。

 

 

─ ─ その当時、まだ京都に住んでいたんですか?

 

笑達: そうですね。僕が30歳のときに辞めて、まだ京都にいました。その頃には有紗の作品が軌道に乗っていて、彼女が展示を重ねながらいろいろなお店を紹介してくれて、「うちの旦那が似顔絵を描いているんです」って話をしてくれたのが大きかったです。

 

有紗: そう、それで似顔絵のイベントや展覧会の声がかかるようになってきて。

 

笑達: そんな活動をしている間に、京都駅近くの古い民家を改装して住居兼アトリエ、そして有紗のショールームを作って。

 

有紗: その家に移ってから、私のビジネスも広がりました。実物を見てもらえる空間ができて、私が伝えたいものや世界観を直接伝えられるようになったのが大きかったです。その家には6~7年ぐらい住んでいました。36歳のときに和歌山へ移住するまでは、そこで活動していました。

「自分もこんなふうに地に足をつけて暮らしたい」
地元に見つけた理想の土地

─ ─ 36歳まで京都に住んでいて、その後、なぜ紀美野町に移住しようと思ったんですか?

 

笑達: 京都での家やアトリエは、やりたいことを詰め込んだ素敵な場所だったんですけど、どこか「もっと自然の近くにいたい」という気持ちがありました。

有紗の作る作品が自然物を扱っていることも大きかったですね。京都駅近くは都会で、公園に行かないと土が見えない環境だったので。僕自身も似顔絵でいろいろな場所に出張していた中で、その土地に根ざして暮らしている人たちと出会い、「自分もこんなふうに地に足をつけて暮らしたい」と感じ始めたんです。

 

有紗: 私は元々、広い自然に囲まれた静かな場所に住むことに憧れていました。建築を学んでいたこともあって、「自分たちの暮らす場所を一から作り上げる」ということにも関心があったんです。田舎に行くことに抵抗はありませんでした。

 

笑達: 初めは和歌山の海沿いのエリアを探していたんですけど、どこもイメージと少し違っていて。たまたま紀美野町に立ち寄ったとき、景色が素晴らしくて、有紗が「ここに住む気がする」と言い出して。その後、土地の情報を調べていたら、父の同級生がちょうど手放したいと思っている土地があると聞いて。すぐに「これはご縁だな」と思いました。その土地は、下に広がるみかん畑を含めて、家を建てる場所としても、外に向けたオープンなスペースとしても、すぐにイメージが広がりました。それが決め手になりましたね。

 

 

─ ─ 最初から土地を探していたんですか?それとも家も視野に入れていたんですか?

 

笑達: 家があればリノベーションしてもいいと考えていましたが、有紗が「1から建てたい」という気持ちになっていたので、土地重視で探し始めました。

 

有紗: そうですね。「ここだ!」と感じる広がりのある土地が欲しかったんです。その中で、たっちゃんの親戚のご縁で、ある土地を紹介してもらいました。その土地は荒れた農地のような場所でしたが、景色が素晴らしく、山の間から遠くに海が見えました。すぐに「ここだ!」と思いました。ただ、農地だったので、転用手続きが必要でした。

 

笑達: 地主さんにお願いして購入させていただきましたが、農地を宅地に転用するために役場の指導を受けました。その手続きには2年ほどかかりました。さらに、土地の名義が亡くなった地主のままだったため、相続手続きを進めてもらう必要がありました。その間も待つしかなかったんです。

 

有紗: 土地自体が人を試すような場所でしたね。水道や電気もなかったので、「本当にここに住む覚悟があるのか」と問いかけられている感じでした。試練が次々とやってきましたが、一つずつクリアしていきました。

 

 

─ ─ 土地を購入して、家を建てるための資金はどうしたんですか?

 

笑達: 家を建てる資金はローンを組みました。フラット35というフリーランスでも借りやすい住宅ローンを利用しましたが、道の一部が私道だったため、銀行が融資を断る事態もありました。最終的にはご家族の同意書などを準備し、フラット35の代理店でなんとかクリアしました。本当に奇跡的に道が開けた感じです。

しかし、地主さんの名義がまだお父さんのままで、その方は亡くなっていて、家に続く私道の持ち主の方が寝たきりで意思疎通ができない状況でした。この状況をどう乗り越えるかが一つの大きな課題でした。

 

有紗: 途中で、「これ、もう諦めるしかないのかな」と思う時もありました。

 

笑達: でも、たまたま見つけた住宅ローンの代理店が「家族の同意書があれば通せます」と言ってくれたんです。その言葉で希望が見えました。地主さんの家族も協力的で、なんとか同意書を準備して審査が通り、無事にローンが組めることになりました。そこからは驚くほどスムーズに進みました。それまでの苦労が嘘のようでした。

 

有紗: 本当に、「土地に試されている」と感じましたね。なんとか2019年中に家が完成して、年末には引っ越しができました。

 

─ ─ 家を建てることができるまでの試練がすごいですね。

 

笑達: 地元のキーマンの助けが大きかったです。地元に根付いた人たちとのつながりが、移住を進める上で重要でした。

 

有紗:「ここに絶対住む」という強い気持ちがあったので、多少の困難も乗り越えられました。でも、この土地に出会った時点で、他の選択肢は頭になかったですね。

 

 

─ ─ 移住までに3年くらいかかったんですね。

 

笑達: はい。土地を見つけてから3年です。その間、いろんなことがありましたが、結果的にここにたどり着けてよかったと思っています。

 

有紗: 私たちは少し特殊なケースかもしれませんね。でも、田舎暮らしを望む人なら、もっと簡単に空き家や土地を手に入れられる方法もあると思います。景色や環境にこだわらなければ選択肢は多いですね。

 

笑達: 僕たちは最初から「自分たちがここだ!と確信できる土地に家を1から作りたいという考えがあったので、その分ハードルを自ら上げてしまった部分もあります。それでも、最終的には「この土地に呼ばれている」という感覚で、ここに決めたんだと思います。

不思議な夢「いろどり山」
この土地から絵や歌が生まれた

笑達: 実はこの土地を見つけた頃に、不思議な夢を見ました。ここの山の主(ぬし)たち、クマ、イノシシ、カモシカみたいな姿の3体の山の主が相撲を取る夢で。その主たちを見た山の村人が「これは”いろどり山”だ」と夢の中で言ったんです。その言葉がずっと心に残り、僕たちはここを「いろどり山」と呼ぶようになりました。

 

有紗: それ以降、たっちゃんがその夢を絵に描き始めたんです。それまで似顔絵しか描かないと決めていた笑達が、新しい挑戦を始めるきっかけになりました。

 

笑達: その夢を見た後、たまたま兵庫で音楽家のハルカナカムラくんと一緒にイベントをしていたんですが、彼に「その夢を絵にしてみたら?」と言われて。それがきっかけで、ライブペイントに挑戦することになり、そこで似顔絵以外の絵を人前で初めてました。

 

有紗: ライブペイントでは、たっちゃんがその夢の物語を巨大な絵で表現し、私は歌で参加しました。人前で歌うのは私も初めてで。まさか自分が歌うことになるなんて思ってもみなかったけれど、ハルカくんが私を引き出してくれたんです。

 

笑達: 9日間かけて15メートル×3.5メートルの巨大な絵を描き上げました。その体験が自分の中で何かを開放してくれて。もう全部開かれた。自分の扉が。今まで悶々と感じてたことがバーン!って開かれて、今みたいな絵をその日から描き出したっていう感じ。そこから似顔絵以外の作品を描くようになりました。それが今の活動の原点です。

その頃から有紗は歌も歌い始めて、音楽も生まれだして。この土地に出会ったことがものすごく大きかった。

移住直後のコロナ禍を支えた
補助金制度と地域のサポート

有紗: 家が完成したのが2019年12月末で、その翌月にはコロナが広がり始めました。最初は対岸の火事のように思っていたけれど、日本でも徐々に深刻になり、予定していた展示や仕事が全て延期に。

 

笑達: 半年ほど仕事が全てなくなり、収入もゼロに。でも、その期間がかえってこの土地との関係を深める時間になりました。家にいながら、初めて自然と向き合い、自分の暮らしに根を張る感覚を得られたんです。

 

有紗: 時間ができたことで、この土地でしか体験できないこと、例えば滝壺に入ったり、自然の中で遊んだりといった新しい日々を楽しむようになった。京都ではできなかった体験が、この土地に住んだからこそ味わえたんです。

 

笑達: ただ、不安もありました。ローンを組んだ直後に収入がゼロになるのは怖かったけれど、その時、補助金制度が非常に助けになりました。

 

有紗:手厚かったよね。めっちゃ手厚かった。

 

 

─ ─ その時使った補助金について詳しく教えてください。

 

有紗: ギャラリー兼アトリエ(「ens」2020年オープン)と自宅、それぞれの建物に50万円ずつ補助金が出ました。

 

笑達: そう。それは町の人から教えてもらったんです。「※正式名称」移住関係の補助金で、5年以上地元を離れている人が戻ってくる、いわゆるUターンの人が対象になる補助金で、土地代と家の建設費用の一部に充てました。詳しいことは、住民課の方に教えてもらったんです。

他にもいくつかあって、たとえば住民票を移すだけで出る補助金もありました。確かそれは100万円くらいだったかな。

 

 

─ ─ 住民票を移すだけで補助金が出るんですか?

 

有紗: そうそう。でも私たちがその制度を使った次の年にはなくなってたから、本当にタイミングが良かった。

 

 

─ ─ 他にも起業者向けの補助金などは検討されましたか?

 

有紗:検討はしたけど、申請はしてないです。その時は私たちが起業の形態に当てはまらなかったんです。

 

笑達:補助金を受けるには和歌山県で開業届を出す必要があったんですけど、そうするとローンを組む際に不利になる可能性があったんです。というのも、ローンでは事業を3年以上継続している実績が求められるんですが、開業届を出すために一度廃業扱いにするとその実績がリセットされるんですよ。

 

有紗: それで補助金は諦めることになりました。ローンが下りないと、そもそも家が建てられなくなるから。

 

笑達: そうなんです。補助金とローンの条件が噛み合わなかったですね。

 

有紗: 補助金以外にも町内の商店や飲食店で使える商品券みたいなものが出たり、県や国からの支援もあって、手厚かったなと思います。

 

補助金に関する情報の要約

建物建設で補助金を活用した。具体的には、移住に関連した補助金がありました。

■移住関連の補助金

・5年以上離れていたUターン移住者向けの補助金。

・建物費用に対して50万円ずつの補助金を受け取った。

・住民票を君野町に移すことで支給された補助金が100万円ほど。

■起業関連の補助金

・和歌山で開業届を出すと降りる補助金があったが利用しなかった。

・理由:既存の事業を廃業する必要があり、その場合ローン審査に影響が出るため。

■補助金のメリットと制限

・移住者にとって補助金は非常にありがたい制度であり、条件さえ合えば大きな支援となる。

・一方で、ローンの審査基準との兼ね合いや開業届の要件など、条件を満たすためには柔軟な対応や諦めも必要。

 

 

─ ─ 商工会などに相談されたことはありますか?

 

笑達: 商工会には何度も相談にいきました。特に自分のアトリエを作るときや、有紗のお店のスペースの補助金申請に役立ちました。商工会の方が事業計画書や文章の下書きを作ってくれて、僕らはそれを最終チェックして直すだけで済みました。

 

有紗: そうそう、「この文面なら通りやすいですよ」とか「ここをこうした方がいいですよ」と、すごく親身にアドバイスをもらえたよね。

 

笑達: 自分たちだけではわからないことも多かったですけど、商工会の方が「今こんな補助金がありますよ」と教えてくれたので、本当に助かりました。

 

有紗: 補助金の申請以外にも、決算の時なんかも相談に乗ってもらってました。「これ間違ってないですか?」みたいに確認できて安心感がありました。

 

 

─ ─ 事業計画書とか、そういう書類の作成はやっぱり難しいですもんね。

 

笑達: 本当にそうです。苦手なことをサポートしてもらえるのはありがたいですね。経理や申告のやり方がわからないときにも、商工会に電話して相談してました。例えば「この経理の処理はどうしたらいいのか」といった疑問も聞けて、本当に助かりました。年会費は1万円程度ですが、手厚いサポートを考えたら十分価値がありますね。

土地の力をカタチに
自然豊かな拠点から広がる創作の可能性

有紗: そう、土地ってやっぱりご縁だと思うんです。どんなに懇願しても縁がなければ結びつかない。

でも、和歌山はタッちゃんの地元ということもあって、地元の方にすごく良くしてもらったことも多かったです。だから、結果的にここが私たちにとって縁のある土地だったんだと思います。でも、正直、田舎で自然豊かであれば、どこでも可能性はあるなと感じていますね。逆に、田舎に住んでから都会の面白さも改めて知った。土地に住みながらそこを拠点にして、都会に通うという形も全然ありですね。

─ ─ 今後どういう活動をしていきたいと考えていますか?

笑達: 考えてることとしては、自分の描いた絵を世界中のいろんな国で、いろんな人に見てもらいたいですね。でも、やること自体は変わらなくて、この土地で感じたことを絵にする。それをいろんな場所で見てもらえたら最高だなと思っています。自分自身はこの土地にずっといたいんで。目下では、もっと大きなアトリエを建てたいなという目標があります。今のアトリエだと物理的に限界があって。もっと大きな絵を描きたい。

有紗: 私は、いつも具体的な「絶対こうする!」っていう目標みたいなのはあんまりなくて。ただ、時々ふっと未来が見えるようなイメージが湧くことはあります。仕事では「こういうものを作りたい」「もっと深めたい」と具体的にやりたいことはあります。でも、それもこの土地から受け取ったものを形にすることが中心なんです。 この場所の広がりや自然の大きさが、私たちの作品にも影響を与えていて、京都にいた頃より物理的に大きな作品を作るようになりました 。

基本的には今やりたいことを形にすることが幸せで、自然に近い場所での生活にすごく満たされています。静かで自然豊かな環境が心地よくて、これ以上の贅沢はない気がしますね。 今は水辺にも興味があって、この土地を拠点にしながら自然と繋がり、そこから何かを受け取って形にしていきたいと思っています。

─ ─ この家には長く住むつもりですか?

有紗: はい。もう一生住むつもりでこの家を建てました。二拠点という選択肢が出てきたとしても、ここから離れることはないと思います。

笑達: そうですね。この土地は僕の地元ですし、生まれ育った場所なので特別な思いがあります。これからもこの場所で、土地から受けるエネルギーを素直に受け取り、それをカタチにする時間を重ねていきたいです。それが続けられたら、僕たちはもう満足です。

笑達さん 川井有紗さん

web : ens

web : 笑達

他の声をもっと聞く

another story