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開けた青い空の下、風に揺れるみかんや八朔。
都会でキャリアを積んだ夫婦は、農業という新しい道を歩く。
試行錯誤の中で手に入れた、
「人間らしく、家族らしく」暮らす農家としての生き方を聞きました。
開けた青い空の下、風に揺れるみかんや八朔。
都会でキャリアを積んだ夫婦は、
農業という新しい道を歩く。
試行錯誤の中で手に入れた、
「人間らしく、家族らしく」暮らす農家としての
生き方を聞きました。
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【きみのフルーツ】
吉瀬雄也 / 果樹農家
移住歴7年
大阪府高槻市出身
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【きみのフルーツ】
吉瀬 りえ / 果物加工品販売
移住歴7年
東京都出身
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一生を通じて
どれだけ様々な経験が積めるか
─ 吉瀬さん、本日はよろしくお願いいたします。
雄也さんは大阪府高槻市出身、りえさんは東京都出身ですね。学生時代はどういう環境で育ったんですか?
雄也(ゆうや):中学から中高一貫校に通っていたんですが、その頃はずーっとゲームばかりしていましたね、世代でしたから(笑) でも、進学校だったので高校3年に近づくと周りが本格的に受験勉強を始めるため、僕も自然と勉強に取り組むようになりました。ゲームのような感覚で、勉強すればするほど成績が上がるのが楽しかったんです。
りえ:私は夫とは違って、バレーボール部に入って部活に打ち込んでいました。塾にも通わず、勉強よりもスポーツに捧げる生活を送っていました。彼とは全く違う青春だったと思います。彼は勉強が好きで、それに対して疑問を持つこともなかったようです。今にも通じることですが、常に学ぶことに対して前向きな姿勢があります。
─ 大学時代では、どんなことを学ばれてたんですか?
雄也:東京大学の獣医学部に入り、動物に関わる仕事を目指していました。元々競馬が好きで、JRA(日本中央競馬会)に関わる仕事に興味を持っていたからです。それに高校では、無条件に医学部を目指す同級生が多い中で、周囲と同じ道を選ぶことに抵抗を感じていたことも、獣医学部を選んだ理由のひとつです。こうした考えが今の農業に携わることにも繋がっているのかもしれません。
りえ:私は大学時代にライフセービングに関わっていました。人の生死に直面する経験をし、人生をどう生きるべきかを強く意識するようになりました。「いつ何が起こるかわからないからこそ、好きなことをやるべきだ」と考え、以前から興味のあった日本人のルーツを探るために、自分でお金を貯めてオーストラリアへ留学しました。文化人類学を専攻し、ミクロネシアの先住民族の取材で、彼らと共に過ごし、日本で生まれ育った私とは全く違う価値観で生きている彼らをレポートする中で、「一生を通じて、どれだけ様々な経験を積めるかが人生の価値」だと考えるようになりました。自分の好きなことを追求し、できるだけ多くの経験をすることが大切だと感じたんです。
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都会の中で積んでいったキャリア
常に新しい経験を求めて
都会の中で積んでいったキャリア
常に新しい経験を求めて
─ 大学卒業後は、どんな仕事に就くんですか?
雄也:大学時代に社会人の先輩方とお話する機会があって、当時の僕には、スーツを着こなしてオフィス街で働くビジネスマンが眩しく見えたんですね。なので初めは、ITと製造が融合したベンチャー企業に入社しました。入社した当時は、成長期で、新丸ビルの最上階にオフィスがあって、とても華やかな環境で働いていました。でも、その後リーマンショックの影響で会社の先行きが不透明になったため、2年ほどで退職を決意しました。その後は、外資系の工作機械の輸入販売企業や、医療機器メーカーなどをそれぞれ2~3年ずつ経験しました。
りえ:私はライフセービングをしていたこともあり、海と関わる仕事に就きたいと思って気象会社に就職しました。そこでは仕事への取り組み姿勢などを教えてもらい、今の自分の基礎になっています。その後、オーストラリアへ再び留学し、現地で資格を取って国際アロマセラピストとしても短い期間ですが活動させていただきました。その後、東京で夫と同じ外資系医療機器メーカーに就職することになります。夫とはその会社で出会いました。私は大学時代から大切にしていた、「やりたいと思った事は生きてるうちにやる」という想いを大切に、自分の道を模索していましたね。
─ お二人とも転職を繰り返し、模索されていた時期があったのですね。キャリアアップの意味もあったのでしょうか?
雄也:キャリアアップの意味もあったのですが、それ以上に常に刺激を求めていた感じです。新しい会社に入社したてはわからないことだらけで毎日わくわく仕事をしていましたが、慣れてくるとだんだん新鮮さが薄れてくる。勝手な思い込みだと思いますが、 会社の中での自分の将来像がなんとなく想像できてしまって、本当にこれで自分の仕事人生を終えていいのかと。
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「それなら、俺がやりたい」
ゼロから一緒に、何かを作りあげる経験を
「それなら、俺がやりたい」
ゼロから一緒に、
何かを作りあげる経験を
― もともとは都会でキャリアを積んでいくつもりだったんですよね? 田舎暮らしを決めたきっかけは?
りえ:当時は二人とも外資系企業で働いていましたし、ずっと東京で暮らしていくつもりでした。私も田舎暮らしなんて全く考えたことなかったんです。でも、ある時、お義母さんから「叔父さん(義母の兄)がやっていたミカン畑の継ぎ手がいない」って話を聞いて、夫が「もったいない、それなら僕がやりたい」って言い出したんです。
ちょうどその頃、夫が仕事にマンネリを感じてた時期だったんです。ちょうどそのタイミングで「ミカン畑を継ぐ」って話が出て、農業に興味を持ち始めたみたいです。最初は好奇心ですけど、だんだん「本気でやる?」っていう話になっていった感じですね。
― りえさん自身は、農業に少しは興味があったんですか?
りえ:いや、全然! 東京で長男が生まれて、「農業って生活できるの?」って思ってましたし、東京での生活を続けるつもりでした。でも、ある時夫に「東大で”農業女子”の講座をやるから話を聞いてみたら?」って言われて、半信半疑で行ってみたんですよ。そしたら、国産シイタケを海外に輸出したり、農業の新しい可能性を模索している女性たちがたくさんいて、「農業は男だけの世界」ってイメージが変わりました。取り組み方次第では、これまでの経験を活かして面白い事ができる職業かもしれないと思ったんです。
それに、それまで義実家から送られてくるミカンが、東京で買うものとは全然違う美味しさなのは感じていて、「売り方を工夫したらビジネスとして可能性が広がるのではないか」って考えるようになりました。
― でも、農業って簡単な世界じゃないですよね?最終的にどう決断されたんですか?
りえ:そうなんですよね。完全に賛成したわけじゃないんです。でも、大学時代から「人生の価値はどれだけ多くの経験ができるか」って思っていたし、新しい挑戦には興味があったんです。
それに、夫は今までどんな仕事でも結果を出してきた人だったので、「この人となら一緒に何か作れるかも」と思いました。私自身も、「夫に頼って生きるんじゃなくて、パートナーである夫と一緒に作り上げる生き方をしたい」って気持ちが強くて。結果がどうなるかわからないけど、「その過程が面白ければそれでいいかな」と思っていたので、最終的に一緒に農業を始める道を選びました。
― つまり、「農業がやりたかった」というよりも、「新しい挑戦」として受け入れた感じなんですね?
りえ:そうですね。私たちにとっては、「農業に挑戦する」というよりも、「ゼロから何かを一緒に作り上げる経験」がしたかったんだと思います。それがミカン農家だったっていうだけで。もちろん、不安もありましたけど、「人生のうちの、ある時間の使い方として楽しめるならアリかな」って。今も、どこまで形にできるかっていうのを日々模索している感覚ですね。
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毎日味わう「小さな達成感」
気がついたら朝から晩まで畑に
― 紀美野町に移住され、始めて”農業”にチャレンジするわけですね。
農家としての生活はどうでしたか?
りえ:「農業やる」って言っても、当初夫は「経営者として動かしたい」と言ってて、本人が畑に入る気はなかったんですよ。でも、いざやってみたら、どんどん自分で作業するのが楽しくなっちゃったみたいで。
雄也:最初は、システム化したり、人を雇ったりして、僕がいなくても回るようにしようと考えてたんですよ。でも、やってみたら農作業そのものが楽しいって気づいて。結局、気づいたら朝から晩まで畑にいるっていう(笑)
― じゃあ最初のイメージとは全然違う形になったんですね?
りえ:そうなんですよ!最初は「ボクは経営者だから、指示を出して動かす」って言ってたのに、今や「作業を誰にも渡したくない!」って言ってるくらい。まさかこんなにハマるとは思わなかったですね(笑)。
雄也:そうそう、草刈りとかもね、最初は人を雇って「誰かにやってもらえばいいや」って思ってたんですけど、いざ自分でやると達成感がすごいんですよ。
― 雄也さんがハマった農業の魅力って、どこにあるんでしょう?
雄也:とくかく「毎日小さな達成感を味わえる」ってことですね。例えば、草刈りって大変な作業なんですけど、やった後に畑の景色がガラッと変わるんですよ。それがすごく気持ちよくて。あと、収穫した作物をどんどん出荷して、コンテナが全部空になった倉庫を見た時「よっしゃー!」って、これもすごい達成感がある。学生時代に好きだった、ゲームのような感覚で楽しいんですよね。
会社勤めの時って、一つの仕事の成果が見えるのに時間がかかるじゃないですか。でも農業は、草刈りしたらすぐきれいになるし、収穫したらその場で目に見える。毎日「小さいゴール」があって、それが続いていくのが気持ち良いんですよね。
― 今まで2~3年で転職していたのが、農業を始めてすでに7年だそうですね。
雄也:僕にとっては今までの仕事の中で一番しっくりきてるんですよ。会社勤めの時は、2~3年で転職を繰り返していたのに、こんなに長く続いた仕事は始めてです。確かに農作業はしんどいんですけど、いつまでも飽きがこないんですよね。農業って毎年違うことが起こるから、全然飽きない。自然相手だから、時々でやることが変わるし、「来年はこうしよう」とか「もっとこうしたらうまくいくんじゃないか」とか、常に考えられることが楽しいんです。農業は僕にとって天職だと思っています。
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お互いがやるべきことをやる
少しずつ形にしていった農家としての仕事
お互いがやるべきことをやる
少しずつ形にしていった
農家としての仕事
― 始めてお二人でゼロから何かを作り上げる挑戦です。どのように形にしていったんでしょうか?
雄也:1年目は叔父の元でひたすら「修行」ですね。農業は収穫以外にも沢山することがあるので、ほぼ休みなし。剪定作業や防除、摘果など、叔父の後について実際に作業しながら農業の基礎を学んでいった感じです。2年目から、叔父が管理していた両親名義の畑を引き継ぎ、独立経営を開始しました。ただ、作付け面積も広くはなく、農業技術的にも初心者だったので、収穫量も少なく売上が上がらず、正直めちゃくちゃ厳しかったです。
りえ:でも、初めからEC展開することも視野に入れて、1年目からECサイト自体は作ってたんですよ。ただ、販促はほぼしてなくて、買ってくれるのは知り合いくらい。子育てしながら空いた時間でちょっとずつサイトを整えていって、少しずつですが売上が出るようになりました。
雄也:りえがECの整備をして、僕は畑で作業してって感じで、お互いできることをやるしかなかったんです。
― EC販売にも初めから着手されていたんですね。
現在展開されている、ジュースなどの加工商品を作り出したのはいつ頃からですか?
りえ:2年目くらいからです。でも、いきなり自分たちで作るのは無理だから、まずは委託製造でフルーツジュース販売をやってみることに。ラベルを作ったり、販促考えたり、少しずつ形にしていきましたね。
4年目くらいから、知り合いのツテで町のシェアキッチンを借りられることになって。そこを週1~2回使わせてもらって、本格的に製造から商品開発を始めました。
雄也:ちょうどその頃、全国放送のテレビ番組に取材してもらって、そこから一気に注文が入りました。もちろん、一時的なブームで、買った人の多くは離脱していきましたけど、それでも一定数のファンは残ったので売上は一気に伸びました。これがあったから、今に繋がった部分もありましたね。
― そうやって少しずつ、形になっていったんですね。
雄也:そうですね。「これはいけるかもしれない」って思い始めたのは、やっぱりECが伸びてきた頃です。最初の3年は正直キツかったですけど、なんとか乗り越えて、今がありますね。
― これから先は、どのように成長していきたいですか?
雄也:うーん、正直まだ迷ってるところですね。このままでも十分楽しいし、生活もできている。でも、地域のことを考えると、少し大きくしていく必要もあるのかなっていう気持ちもあります。地域自体が衰退していくと、結局、自分たちの生活や仕事にも影響が出てきますから。ゆくゆくは、規模を大きくして、新しく雇用を生み出し、地域農業、地域経済の維持に貢献していくことも考えています。
りえ:私は、商品開発の幅を広げていきたいですね。今は八朔や柑橘がメインだけど、もっと加工品の幅を広げたり、県外とか海外にも販路を広げたいなって考えています。彼は畑で生産して、私はそれをどう売るか考える。そういう役割分担を続けつつ、うまくやっていけたらと思っています。
― すごくバランスが取れてる気がします。畑だけでもダメだし、売るだけでもダメだし。
雄也:そうそう。どっちかだけじゃ成り立たないんで。そこは助かってますね。
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補助金を活用した基盤作りと
相談会でつかんだ大きなチャンス
― 資金面では補助金などを活用しましたか?
雄也:「農業次世代人材投資資金」ですね。年間150万円を最長5年(令和7年度は最長3年予定に変更となっています)もらえる制度があって、これを活用しないと一から新しく農業を始めるのはかなり厳しいと思います。僕らも最初の数年間はこの補助金を生活費に充てながら、農業の基盤を作っていきました。
― 県の補助金も使ったんですか?
雄也:そうですね。和歌山県の事業として県外からの移住者向けに「農林水産就業補助金」とていうのがあって、50万円の単発支給ですけど、初期費用の足しになりました。あとは、経済産業省の事業である「小規模事業者持続化補助金」というのも活用しました。これは加工品のパッケージデザインや化粧箱を作るのに使ったんですが、最大50万円、3分の2の費用を補助してくれる仕組みでした。
― それらの補助金、どうやって申請したんですか?
雄也:商工会のサポートが大きかったですね。補助金の申請手続きも手伝ってくれましたし、事業者向けの相談会とかもアテンドしてくれましたね。その相談会に、大手百貨店のバイヤーが来ていて、うちの加工品を売り込むチャンスが生まれました。パッケージデザインやうちの商品コンセプトを評価してもらって、結果的にお中元カタログに採用されました。これはビジネスの転機になった出来事のひとつですね。
― やっぱりパッケージデザインって重要なんですか?
りえ:大事ですね。結局、いくら中身が良くても、見た目のデザインやブランディングがしっかりしてないと、なかなか手に取ってもらえなかったり。実際、百貨店の担当者も「デザインのクオリティがいいから」って言ってくれて、取り扱いが決まったものもあります。補助金を活用して、デザインを含めたビジュアル面まで整えられたことで、こういう大手と取引のきっかけが生まれたのは大きかったです。
雄也:今までの農協やECに加えて、百貨店のカタログ販売にも載るようになったことで、売上の安定化に繋がりました。
※補助金の内容は活用した当時の情報を記載しており、変更となっている可能性があります。
現在の内容については、必ず管轄の商工会および行政等に確認をお願いします。
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なんとか堪えた最初の3年間
あの時の苦労があるから、今がある
なんとか堪えた最初の3年間
あの時の苦労があるから、
今がある
― 紀美野町に移住して、始めての”農業”に始めての”田舎暮らし”。
暮らしを作っていくなかで大変なこともあったんじゃないですか?
りえ:移住して最初の3年間が、もう、本当にキツかったですね。夫が「こんなビジョンでやろう!」って熱くプレゼンしてくれて、納得はしてから来たんですけど、いざ来てみたら「え、こんなはずじゃなかった…」って。始めたばかりの頃は、毎月のように残高が減っていく生活で、めちゃくちゃ焦りました。そんな中、子どもはまだ小さくて夜中の授乳で寝不足なのに、通帳の残高を見るとさらに眠れなくなるという。。その3年間は、何度も「帰ろう。もう東京に帰る!」って言ってました(笑)
― いわゆる「移住者仲間」みたいな、相談できる人はいなかったんですか?
りえ:多くの移住者は山奥のエリアに住んでて、私たちみたいに街中エリアにいる人は少なくて。本音で話せる相手がいないって、こんなにしんどいんだって思いました。東京だったら、友達に「ヤバい、お金ない!」とか「めっちゃ疲れた!」ってすぐにさらけ出せたのに、ここでは中々言えなかった。でも、子どもが幼稚園や小学校に通うようになったことで、少しずつママ友との繋がりができてきた。長くいれば、自分の立場をわかってくれる人も増えていった。そうなると、ちょっと気持ちが楽になっていきましたね。
― 3年間、よく耐えましたね。
りえ:ほんとですよ!今だから笑って話せるけど、あの時は「今日こそ、子ども連れて実家に帰ろう。」って毎日思ってましたから(笑)でも、最初の3年間は確かに大変だったけど、少しずつこっちの暮らしに馴染んでいったし、今は悩み事なんかも聞いてくれる友達もいるし、思えば、あの時の苦労があったからこそ今があるのかなって。「なんとかなる」って言ってた夫の言葉、今ならちょっとだけ信じられるかも。でも、あの3年間には二度と戻りたくないですね。
雄也:俺はまた戻ってもいける気がするけどなー(笑)
りえ:いや、私は絶対に無理!(笑)
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気負わず、合わなかったら戻ればいい。
大変でも、楽しむことを忘れない
気負わず、
合わなかったら戻ればいい。
大変でも、楽しむことを忘れない
― 紀美野町には、移住して新しく農業の世界に関わる人も多いです。
これから移住したい人、さらに農業を始めたい人へのアドバイスはありますか?
雄也:まずは、あまり期待しすぎないことですね(笑)「こういう田舎暮らしをしたい!」って理想を持ちすぎると、現実とのギャップに苦しむこともあるので。とりあえず住んでみて、合わなかったら戻ればいい、くらいの気持ちの方が気楽だと思いますよ。
― なるほど。移住って、一度決めたら戻れない…って思っちゃう人も多いかもしれませんね。
雄也:戻る選択肢を残しておくのはありですよ。実際、僕も東京に戻れるように考えてましたし。「ダメなら帰ろう」って思ってたからこそ、気負わず移住できたんだと思います。だから、もし仕事を辞めて移住するなら、元の職場に戻れるようにしておくとか、別の仕事の道も考えておくと安心ですよね。
りえ:それと、「楽しむことを忘れないこと」ですね。どんなに大変でも、「楽しめる要素」を見つけられるかどうかで違ってくるかもしれません。田舎暮らしも農業も、理想と現実のギャップは絶対にあるけど、それを面白がれる人なら向いてるんじゃないかなと思います。でも、大変さを楽しめるようになるには、ある程度時間も必要なので 、ちょっとゆるく構えて、3年くらい住むとジワジワと良さがわかってくるかもしれません。
― 「農業を仕事に」という意味では、どういった準備をしておくといいですか?
雄也:一つ言えるのは、「最初から畑を持つ必要はない」ということです。まずは農業バイトや研修から始めて、地域の人との繋がりもできれば、良い畑を紹介してもらえることもあります。実際に、そうやって独立した人も近くにいます。農業って、畑を見るとその人がどれくらい頑張ってるかがわかるんですよ。「この人は真面目にやってるな」って認められれば、引退する方から良い畑を譲ってもらえたりもする。
特に農業を志すなら、国や町の就農支援があるので、移住してすぐ生活費に困ることはない。焦らず、徐々に整えていけばいいんです。
― 吉瀬さんたちのように、農業に加えて、加工品の販売まで考えるべきですか?
雄也:正直、農業の方がきちんと稼ぎやすいですね。加工品って設備投資がかかるし、すでに先駆者が小売店の棚を押さえちゃってるんで、新規参入はけっこう難しんですよ。
りえ:私も夫に「加工品やめて農業やれ」って言われてるくらい(笑)でも、会社を大きくしたいなら加工品の方が可能性がある。雇用も生みやすいし、通年で仕事を作れるのが強み。特に、ECとかマーケティングが得意な人は強い。農業+加工品の組み合わせで少人数でも会社を大きくできると思う。ただ、そういうスキルに自信がなければ、最初は農業一本でやった方が無難ではありますね。
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競争の中にはない、本当の営み
「人間らしく、家族らしく」生きている
競争の中にはない、本当の営み
「人間らしく、家族らしく」
生きている
― 7年経ってみて、現在の暮らしはどうですか?
雄也:形にはなってると思います。思ってたより時間はかかったけど、農業としての基盤はできたし、何よりモチベーションはまだまだ続いてますね。
りえ:移住を決めたときは、農業ビジネスを軌道に乗せて、会社を大きくして、みたいなギラギラしたビジョンを持ってたんです。でも、実際に暮らしてみると、何より子育ての環境が良かったのが大きくて。移住前には想像していなかった一番の収穫でした。
東京だと、大人も子どもも気づかないうちに競争の中に巻き込まれていて、どこか息苦しかった。でも田舎だと、子どもが少ない分、地域の人がすごく大事にしてくれるんですよね。学校の先生も、一人ひとりにちゃんと向き合ってくれてる感じがあります。
― なるほど。もし東京に残ってたら、全然違う形の子育てになっていたかもしれませんね。
りえ:たぶんサラリーマンをやって、慌ただしく暮らしてたと思います。夜遅くまで仕事して、家族全員で夕ご飯なんて、ほとんど食べられなかったと思います。でも、紀美野町に来てからは、朝も夜も家族で一緒にご飯が食べられるし、毎日ちゃんとみんなで会話する時間も取れている。「生活や暮らし」というものをしっかり感じながら生きている気がします。
― 今の暮らしが「正解」だと思いますか?
雄也:正しいのかどうかはわかんないです。でも、「人間らしく、家族らしく」過ごせてる実感はありますね。
りえ:それが、この7年間で得られた、一番の収穫かもしれないですね。
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※記事の内容は2025年3月31日時点のものです
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吉瀬 雄也(YUYA YOSHISE)/ 農家
1982年 大阪府高槻市生まれ
東京大学農学部獣医学科卒業
ITベンチャー企業、外資系医療機器メーカー プロダクトマネージャー等を経て
2017年に紀美野町へ移住、就農
趣味はアイスホッケー
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吉瀬 りえ(RIE YOSHISE)/ 果物加工品販売
東京都生まれ
豪州大学へ留学
気象会社に入社、海外番組制作、国内お天気キャスターに従事
再び豪州留学。自然療法を本格的に学び、国際アロマセラピストを取得
2017年夫の就農を機に紀美野町へ移住
趣味は乗馬